>「宇治市都市整備計画」の早期実現を !
平成20年2月6日 「マナーとルール」を守ろう
●車イスから見た、世界を体験しての、テーマをもらったが、後遺症である、右上下肢機能全廃と、失語症の私が、皆様におしゃべりします。聞きづらいと思いますが、しばらくの間、お付き合いください。
●12年前に、宇治市肢体障害者協会に入り、昨年8月より事務局長をやっています。元気なうちに、皆さんのお役に立てればと思っていまのでご協力をお願いします。
●私が病に倒れて、今日に至るまでを簡単に話します。13年前の阪神淡路大震災で、神戸で被災した義妹一家が、宇治に来た1ヶ月後。二男の結納式を終えて、やれやれと思った、その一週間後の2月19日に、母が亡くなりました。
病院から連れて帰り、葬儀の段取りを終えた時に、私は母の側で倒れ、救急車で徳州会病院運ばれた。病名は母と同じ脳出血であった。生死をさまよい、母の葬儀もしてやれず、妻は病院と葬儀場を、うろうろしていたそうです。1年間徳州会、妻のさと、滋賀の豊郷(とよさと)、洛東の各病院で、入院生活を送り、リハビリに専念しました。退院後、社会復帰したいと言う、望みはかなわず、35年間勤めた、近畿労動金庫を退社しました。右上下肢機能全廃と失語症という、二重の後遺症を、荷(にな)って、妻と二人三脚の、生活が始まりました。
●家の中は、バリアフリー化にした、部屋の移動は、スムースに出来るようになった。着替えは、介助が必要です。洗面は、なんとか片手で歯や、顔を洗う、トイレは絶対に洋式、外出した時は、どこに洋式トイレがあるのか、気になるところです。風呂にも介助が必要です。ベットでは、とくに寝返りを打つとき、不自由ながら、うまく出来るようになったが、寝返りのたびに、布団がずり落ちて、冬ともなれば、寒さに目をさまします。また、2階は、昇れないなど、不便なこと、計り知れないです。
●失語症の、リハビリを少し話します。ベットで気がついた、その日から、失語症の、リハビリが始まりました。「あ」「い」「う」「え」「お」「か」「き」「く」「け」「こ」と繰り返し繰り返し覚えて、やっと言葉に、なってでたのが、6か月目、その日、妻と2人で、きょとんとしたことを思い出します。その日から、退院までの毎日毎日、妻の読む新聞、雑誌の復唱の、繰り返しで、なんとか会話になりました。社会福祉協議会の、デイサービスには、大変お世話になりました。民謡、コーラス、カラオケが、言葉のリハビリと、今も続けています。
●残された人生は、前向きにと考えて
自分で克服できるものは、なんでも必死で挑戦してきました。退院して、一番に妻は、自動車教習所に連れて、行ってくれました。十日余りで、免許を許されて、改造自動車を購入、今は、私の足代わりとして、小さなボディ(日産マーチ)で頑張ってくれています。運転をして妻と、百貨店、スーパーめぐりは、買い物を、かねて歩くリハビリと、毎日の日課です。見かけたら声をかけてください。
パソコンで情報収集をしていて、ホームページを開設しています。皆さんも、ぜひ開いて見てください。現在6万人の人が、開いて見てくださっています。
●最後に、身障者の駐車場、優先座席など、高齢者や障害者のために、一人ひとりが「マナーやルールを守って」思いやりのある街、宇治になるように、願っています。おわります。
「宇治市都市整備計画」の早期実現を ! 2008.2.6
私は生まれて、すぐ高熱がもとで小児マヒ・ポリオになりました。
後遺症として手足にマヒが残り、歩くのが困難になりました。
今の医学だと、すぐ病院に行ったら、少しは良くなったかも分かりません。母は健康な子供と同じようにと、マヒしている手足を、一生懸命にマッサージなどしてくれました。また、字が書けるように、歩けるようにと、たくさんの愛情を注いでくれました。母の深い愛情と自分の努力から、不自由ながらも、歩けるようになりました。
その頃の道は、石ころだらけの凸凹道で段差、勾配のきつい階段など、数えきれないほどありました。外へ出るのは大変でしたが、今はバリアフリー化が進み、道路も舗装され、少しづつ改善されて、車椅子で自由に外へ、出かけられるように、なってきました。しかし、現実はまだまだのようです。
結婚して、宇治に籍をおいて38年になります。
最初は、便利なJR新田駅の近くに25年程住んでいました。
その地域は、昔からの家が建っており、道路もせまく、車が多く、離合する時、私みたいな障害者にとっては、それは、それは大変でした。
新田駅から、奈良線、関西線、伊賀線を乗りついで、帰るふるさとは、芭蕉さんと伊賀忍者の里、近くにあります。(今の三重県伊賀市上野です)、新田駅はよく利用してます。階段は、一段一段が高く、ホームに渡る途上には、屋根がなく、雨が降ったら困ったことになるのです。
早くから町内の方が、JR、市に陳情に行っていたのですが、なかなか実現せず奈良線では、一番遅れています。
平成17年10月に「宇治市都市整備計画のバリアフリー化大久保づくり」の話に参加させていただき、私の思いを聞いてもらいました。「すべての人が、安心して、どこにでもでかけられる、やさしい街、宇治」になることを願っています。
健康な人も、高齢者になると、足、腰、耳は遠くなり、目も悪くなります。障害者は、障害を友として、一生仲良くつきあって、行かねばなりません。私の体験から、身体の不自由な人が困っていたら、「どうかなさいましたか」と、ぜひ声をかけて頂きましたら、大変うれしく思います。
また、障害者にとって、移動は大変なことです。歩道に自転車、障害物を置かないなど、やさしい気持ちを持って、接して頂きたいと思います。私たちも努力し頑張ります。最後に、バリアフリー化の早期実現をせつに希望します。
これで取り止めもない私の話は、終わらせて頂きます。ご清聴、ありがとうございました。
私のテーマは「両手に松葉杖と電動四輪車でかけ回る」です。聞いてください。
私は、宇治市肢体障害者協会の小山でございます。
京都四条の南座の横で生まれ、鴨川でうぶゆを使い育ちました。
2歳の時、誤って2階から落ち、父母があちこちの病院に連れて行ってくれましたが、打ち所が悪く、足に後遺症が残りました。小学校の時、よく母の勤める米屋さんから、おぶってもらって、行き返りしたことを、思い出します。最近歳を重ね、足もだんだん悪くなる一方です。車椅子にゆっくり乗ったことはないが、両手に松葉杖と電動四輪車でかけ回っています。こうして今、私が元気にかけ回われるのも、父母のお蔭です。
私の兄妹は5人、末娘として生まれましたが、現在は一番上の兄と私、72歳で頑張っています。また、私の主人は、小児麻痺で電動四輪車にお世話になって、私と同様、元気に過ごしておりましたが、病には勝てず、3年間一日おきに、透析のため病院に通う、看病のかいもなく、3年前に他界しました。もう私の前に現れることもなく、私を怒ることもなく、さびしい限りです。
今は、城南荘にいます。家には、さすけと言う、主人の形見の犬と同居しています。そうして孫、ひ孫に囲まれて、にぎやかに暮らし、ひ孫の着る物を編んでは、その成長を楽しんでいます。・・・昭和29年に障害者手帳をもらって、宇治市肢体障害者協会の会員になったのは、昭和49年です。現在、副会長で頑張っています。
・・・電車やバスの利用は、きわめて少なく、ほとんどの移動は、電動四輪車で、30年のキャリア持ち、運転技能も安定しています。(自分はそう思っているんだけど)少しの段差が大変、曲がれない、止まれないのでこわいですが、車道は、どうどうと白い線に、そって走ります。また、歩道があってもせまく、電柱が立っていて、行き止まりです。歩道、車道を走ることは、危険がいっぱい伴います。一日も早いバリアフリー化を望み、「すみよい宇治、住んでよかった宇治」と、誰もが思う宇治に、なるよう、せつに願っています。ごせいちょう、ありがとうございました。
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